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人文学部
#紀要論文
北山惣社御神楽と綾小路信俊
- AI解説:
- 応永八年(一四〇一)に始まった北山惣社御神楽は、足利義満が北山第に鎮座した北山惣社において毎年十二月一日に行われた恒例行事です。綾小路信俊の記述によると、この御神楽は「仙洞御願」に准じて行われたとされ、当時の義満が院のように振る舞った証拠とされています。しかし、近年では義満に皇位簒奪の意志があったとする説はほぼ否定されています。本稿は、北山惣社御神楽の実態や義満、義持、朝廷、大名の関与を解明することを目的としています。
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人文学部
#紀要論文
北山惣社御神楽と綾小路信俊
AI解説
- 背景と目的:
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応永八年(一四〇一)に始まった北山惣社御神楽は、足利義満が北山第に鎮座した北山惣社において毎年十二月一日に行われた恒例行事です。綾小路信俊の記述によると、この御神楽は「仙洞御願」に准じて行われたとされ、当時の義満が院のように振る舞った証拠とされています。しかし、近年では義満に皇位簒奪の意志があったとする説はほぼ否定されています。本稿は、北山惣社御神楽の実態や義満、義持、朝廷、大名の関与を解明することを目的としています。
- 主要な発見:
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北山惣社御神楽は、義満の死後も継続され、北山院康子の死後も数年間は行われ続けました。しかし、義満自身が御神楽に参列することはなく、その経費も北山居住の大名らに依存していました。また、綾小路信俊は義満や後小松天皇に冷遇され、特に家業である御神楽に対して激しい批判を繰り返していました。義満没後、御神楽は朝廷や幕府の関与を欠いたまま北山惣社の私的な祭祀として行われ続けましたが、北山第の規模縮小にともない、御神楽も次第に廃絶しました。
- 結論と意義:
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北山惣社御神楽は義満が西園寺家の祭祀を継承する形で始められたものであり、義満が院のごとく振る舞った証拠として注目されてきましたが、実際には南北朝期の持明院殿新宮御神楽とは異なり、義満自身が参列することはありませんでした。このことは、義満に強い不満を抱く綾小路信俊の視点を考慮することで明らかになりました。また、義満没後も北山惣社御神楽は継続されましたが、朝廷や幕府の関与は見られず、北山院康子の死亡後、北山第の縮小とともに衰微し、廃絶しました。この研究は、北山惣社御神楽の実態を明らかにすることで、義満時代の政治的・文化的背景や綾小路信俊の視点を再評価する意義があります。
- 背景と目的:
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北山惣社御神楽(きたやまそうしゃみかぐら)は、1401年に始まり、足利義満(あしかが よしみつ)が北山第(きたやま だい)で毎年12月1日に行った恒例行事です。この御神楽は、義満が天皇のように振る舞った証拠とされますが、皇位を奪う意図があったという説は現在では否定されています。この研究では、北山惣社御神楽の詳細や、義満、義持(よしもち)、朝廷、大名たちがどのように関与したかを解明することを目的としています。
- 主要な発見:
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北山惣社御神楽は、義満が亡くなった後も続きましたが、義満自身は御神楽に参加しませんでした。また、その費用は北山に住む大名たちに頼っていました。
は、義満や後小松天皇に冷遇され、御神楽に対して強い批判をしていました。義満の死後、御神楽は朝廷や幕府の関与がなくなり、次第に規模が縮小され、最終的に行われなくなりました。綾小路信俊(あやのこうじ のぶとし) ( 当時の殿上人で、義満や後小松天皇に批判的な記録を残した人物です。)
- 結論と意義:
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北山惣社御神楽は、義満が西園寺家の祭祀を引き継いで始めたものであり、義満が天皇のように振る舞った証拠として注目されてきました。しかし、義満自身が御神楽に参列することはなく、彼の死後も行事は続けられましたが、次第に衰え廃絶しました。この研究は、北山惣社御神楽に関する新しい視点を提供し、義満時代の政治的・文化的背景や綾小路信俊の視点を再評価する意義があります。
- 何のために?:
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(きたやまそうしゃみかぐら)は、1401年に始まりました。北山惣社 御 神楽( 1401年に始まったお祭りで、毎年12月1日に行われました。) (あしかが よしみつ)は、毎年12月1日にこの行事を行いました。このお祭りは、義満がとてもえらい人だったことを足利義満 ( 北山惣社御 神楽を始めたとてもえらい人です。) 示 しています。この研究では、北山惣社御 神楽の詳 しいことや、義満、 (よしもち)、義持 ( 義満の後を継 いだ人です。) 、朝廷 ( 天皇 やその周 りの人たちがいる場所です。) たちがどうやって大名 ( 昔のお金持ちで力のある人たちです。) 関 わったかを調べます。
- 何が分かったの?:
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は、義満が北山惣社 御 神楽( 1401年に始まったお祭りで、毎年12月1日に行われました。) 亡 くなった後も続 きました。しかし、義満はこのお祭りに参加 しませんでした。お祭りの費用 は、北山に住む たちが出していました。大名 ( 昔のお金持ちで力のある人たちです。) (あやのこうじ のぶとし)は、義満や綾小路信俊 ( 義満や後小松天皇 に冷 たく扱 われた人で、お祭りに反対していました。) に後小松 天皇 ( 義満の時代の天皇 です。) 冷 たく扱 われて、お祭りに強く反対していました。義満が亡 くなった後、お祭りはだんだん小さくなり、最終的 には行われなくなりました。
- 研究のまとめ:
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は、義満が北山惣社 御 神楽( 1401年に始まったお祭りで、毎年12月1日に行われました。) の行事を西園寺家 ( 義満が北山惣社御 神楽を引 き継 いだ家です。) 引 き継 いで始めました。義満がとてもえらい人だったことを示 しています。しかし、義満自身はお祭りに参加 しませんでした。義満が亡 くなった後もお祭りは続 きましたが、だんだん小さくなり、最終的 にはなくなりました。この研究は、北山惣社御 神楽について新しい考え方を提供 します。義満の時代の政治 や文化の背景 を再評価 する意味があります。
- 著者名:
- 中本 真人
- 掲載誌名:
- 人文科学研究
- 巻:
- 147
- ページ:
- T1 - T23
- 発行日:
- 2020-12
- 新潟大学学術リポジトリリンク:
- http://hdl.handle.net/10191/0002000092
