論文詳細
人文学部
#紀要論文
Referring to the Face : Dostoevsky’s The Idiot in the History of Physiognomy
- AI解説:
- 本論文は、フョードル・ドストエフスキーの『白痴』は、人間の顔の意味をめぐる持続的な探究として読むことができると主張する。というのも、この小説では、顔に対する強い注視と、顔つきにもとづく素早く重大な判断が繰り返し描かれるからである。論文は典型的な場面から出発する。ムイシュキン公爵がナスターシャ・フィリッポヴナの写真の肖像を初めて見たとき、彼は顔のごく細かな部分から、苦しみ・誇り、そして決定的な「優しさの可能性」を自信をもって推し量る。著者はこの瞬間を、指示(referential)の点でも(ムイシュキンが目の下のどこを正確に指しているのかが不明確である)、語用(pragmatic)の点でも(彼の率直さが社会的に不適切に見える)不可解なものとして扱う。主として宗教的・図像学的に読む立場(例:Kasatkinaの提案)を採らず、本論文の目的は、小説における「顔についての語り」を、顔を解釈する言説・実践としてのphysiognomy(観相学)の歴史の中に位置づけ、顔の徴候が読み取れる(legible)とみなされる度合いに関する歴史的転換を、小説がどのように捉えているかを明らかにすることである。
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人文学部
#紀要論文
Referring to the Face : Dostoevsky’s The Idiot in the History of Physiognomy
AI解説
- 背景と目的:
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本論文は、フョードル・ドストエフスキーの『白痴』は、人間の顔の意味をめぐる持続的な探究として読むことができると主張する。というのも、この小説では、顔に対する強い注視と、顔つきにもとづく素早く重大な判断が繰り返し描かれるからである。論文は典型的な場面から出発する。ムイシュキン公爵がナスターシャ・フィリッポヴナの写真の肖像を初めて見たとき、彼は顔のごく細かな部分から、苦しみ・誇り、そして決定的な「優しさの可能性」を自信をもって推し量る。著者はこの瞬間を、指示(referential)の点でも(ムイシュキンが目の下のどこを正確に指しているのかが不明確である)、語用(pragmatic)の点でも(彼の率直さが社会的に不適切に見える)不可解なものとして扱う。主として宗教的・図像学的に読む立場(例:Kasatkinaの提案)を採らず、本論文の目的は、小説における「顔についての語り」を、顔を解釈する言説・実践としてのphysiognomy(観相学)の歴史の中に位置づけ、顔の徴候が読み取れる(legible)とみなされる度合いに関する歴史的転換を、小説がどのように捉えているかを明らかにすることである。
- 主要な発見:
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中心的な主張は、『白痴』がphysiognomy(観相学)的な意味モデルを劇化し、最終的にはそれを不安定化させるという点にある。小説前半でムイシュキンは、顔を強い指示力(referential force)をもつ記号として読み取る、雄弁なphysiognomist(観相学者)のように見える。彼の言葉づかいは、顔の特徴が、安定した性格的・倫理的結論へと解釈しうるという確信を前提としている。論文はこの確信を、19世紀における顔に対するより広範な記号論的態度と結びつけ、その態度をツルゲーネフの「portrait game(肖像ゲーム)」によって例示する。そこでは参加者が想像上の肖像の頭部を解釈し、性質・習慣・嗜好を付与していくが、現実の指示対象(referent)が存在しないにもかかわらず、解釈の真偽が多かれ少なかれ「真(true)」として評価される。しかし『白痴』後半では、この確信が「取り返しのつかないかたちで損なわれる(irrevocably undermined)」。ムイシュキンは顔に意味を見いだして言語化できなくなり、反応は恐怖に満ちた、ほとんど空疎に近い叫び(「彼女は——気が狂ってる!」)へと縮減する。さらに論文は、小説が顔を「指示する(referring)」(解釈可能な記号として扱う)ことから、顔を「指し示す(pointing)」ことへと移行すると論じる。この身ぶりは指示の崩壊と、physiognomy(観相学)的な意味作用への信頼の喪失を示すものだとされる。
- 方法論:
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論文は、顔の解釈を前景化する『白痴』の主要箇所を精読することで議論を進める。とりわけ、ムイシュキンがナスターシャ・フィリッポヴナの写真の肖像に遭遇する場面と、その後、彼がかつての解釈上の流暢さを失っていく場面が中心となる。これらのテクスト分析は知的史的枠組みに位置づけられる。すなわち、西洋のphysiognomy(観相学)の興隆と衰退であり、とりわけ「Lavaterian」段階(Johann Caspar Lavater)と、それがドストエフスキーが小説を書いた時期までに衰えていったことに注意が払われる。ドストエフスキーのノートが「physiognomic laboratory(観相学的実験室)」を示唆するという研究者の主張(例:図や書法に関するBarshtの研究)を認めつつも、著者はドストエフスキーがLavaterを知っていたことの直接的証拠は限られている(基本的にはヤノフスキー医師を介した回想録報告)と慎重に指摘する。さらに比較的方法として、ツルゲーネフの「portrait game(肖像ゲーム)」を、physiognomy(観相学)的なsemiosis(記号過程)をモデル化する文化実践として再構成する。すなわち、顔の記号を産出し、解釈を生成し、それが想像上の指示対象である場合でさえ、客観的指示対象に固定されているかのように評価する、という過程である。分析はまた、既存の解釈提案(Kasatkina、Johnsonのレヴィナス的枠組み、Wachtelの「novel-photograph」概念)とも、あくまで方向づけの参照点として選択的・限定的に関わるが、それらを本論文の主要な説明枠組みとはしない。
- 結論と意義:
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論文は、『白痴』は、physiognomy(観相学)が約束していた「顔は読める」という見通しが崩壊しつつあった歴史的転換点に書かれた小説として理解すべきだと結論づける。公爵の軌跡——自信に満ちた顔の「読解」から、顔を前にした沈黙と恐怖へ——は、顔が意味ある記号として価値を減じていく、より大きな過程を小説内部に記録したものとなる。この移行は主題的であるだけでなく記号論的でもある。解釈が破綻すると、指示(reference)は、より原初的な行為である「指差し(pointing)」へと置き換わり、著者はこれを、意味の危機と、顔をめぐるコミュニケーションの経済(communicative economy)における危機の指標として扱う。論文はさらに、ムイシュキンの経験における独特の時間性を強調する。顔は「第一義的に(in the first instance)」意味あるものとして取り込まれるのではなく、idée-fixe(固定観念)として執拗に回帰し、意味には過去の発話や当初のショックを参照することでしか近づけない。こうして本作は「physiognomy(観相学)の時代の終わり」に立つものとして位置づけられると同時に、トラウマを「遅れて同化される経験」とみなす類比を通じて、後の枠組みであるpsychoanalysis(精神分析)を先取りしているとも述べられる。
- 今後の展望:
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論文は将来研究の計画を形式的に提示してはいないが、その主張が暗にいくつかの方向性を示している。第一に、ドストエフスキーの「physiognomic imagination(観相学的想像力)」について、ノート中の素描を制作過程(compositional practice)と関連づけて体系的に研究する余地が示される一方、文書証拠が限られることから、Lavaterianな直接影響の主張には慎重さを保つべきだとされる。第二に、ドストエフスキー研究では十分検討されてこなかったとされるツルゲーネフの「portrait game(肖像ゲーム)」との比較は、19世紀の肖像解釈をめぐる社会的・記号論的実践と、それが文学的な人物造形や読者の推論とどう関わるかについて、探究を拡張することを促す。第三に、顔の解釈可能な指示から非指示的な指差しへの移動を強調することで、顔が安定した記号として機能しなくなったとき、『白痴』が対面(face-to-face)遭遇の倫理(ethics)と語用(pragmatics)をいかに再編するかを辿る、より広い研究展望が示される。最後に、顔によるショックの時間構造と精神分析概念としてのトラウマを結びつける本論文の議論は、physiognomy(観相学)的な可読性から、遅延した意味形成(belated meaning-making)の後期モデルへの移行という示唆を、今後の研究がさらに検証・精緻化・あるいは限定していく可能性を含意している。
- 背景と目的:
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この論文は、ドストエフスキーの小説『白痴』は「人の顔にはどんな意味があるのか」をずっと考え続ける作品として読める、と主張します。小説の中では、人が相手の顔をじっと見たり、顔つきだけで素早く大事な判断をしたりする場面が何度も出てくるからです。
たとえば主人公のムイシュキン公爵は、ナスターシャ・フィリッポヴナの写真を初めて見たとき、顔の細かい部分から「苦しみ」「誇り」、そして「優しくなれる可能性」まで読み取ったつもりになります。しかしこの場面は、彼が顔のどこを指しているのかはっきりしない点でも、初対面の人をあまりに率直に評価してしまう点でも、不思議でわかりにくいものとして扱われます。
この論文の目的は、『白痴』に出てくる「顔についての語り」を、昔ヨーロッパで広まった「顔から性格を読み取れる」という考え方の歴史の中に置いて考え直し、小説が「顔は読み取れるものだ」という信じ方が変わっていく様子をどう描いているかを明らかにすることです。
- 主要な発見:
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論文の中心的な結論は、『白痴』は「顔から意味を読み取れる」という考え方を物語の中でわかりやすく見せつつ、最後にはその考え方が成り立たなくなる様子も描いている、という点です。
小説の前半では、ムイシュキンは顔を「確かな手がかりがあるもの」として読み取れる人のように見えます。つまり、顔の特徴からその人の性格や善悪まで、ある程度は決められると信じているような話し方をします。論文は、こうした「顔は読める」という自信が19世紀に広く見られた考え方とつながっていると述べ、ツルゲーネフの「肖像ゲーム」という遊びを例に出します。そこでは、実在しない人物の想像上の顔を見て性格などを当てるのに、当たっているかどうかが「どれだけ真実っぽいか」で評価されていました。
ところが小説の後半では、ムイシュキンのその自信が決定的に崩れます。彼は相手の顔を見ても、意味を言葉にできなくなり、最後には「彼女は気が狂ってる」といった、恐怖の叫びのような反応しかできなくなります。論文はさらに、小説が「顔を解釈して語る」ことから「顔を指差す」ことへ移っていく、と説明します。これは、顔を読み取れるという信頼が壊れていくことを表している、というわけです。
- 方法論:
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論文は、『白痴』の中でも特に「顔の解釈」が強く出てくる場面を丁寧に読み込んで分析します。中心になるのは、ムイシュキンがナスターシャの写真を見て語る場面と、その後だんだん顔についてうまく語れなくなっていく流れです。
また分析は、当時の知的な流れとも結びつけられます。具体的には、西洋で流行した観相学が盛り上がり、やがて弱まっていく歴史です。特にラヴァーターという人物が広めた時期が重要だとされます。ただし、ドストエフスキーがラヴァーターを直接読んでいた確かな証拠は少ないため、そこは慎重に扱われます。
さらに比較として、ツルゲーネフの「肖像ゲーム」を、顔を記号として作り、読み取り、評価するという当時の文化のモデルとして捉え直します。加えて、他の研究(宗教的に読む立場や倫理学的な読み、写真という媒体から考える読み)にも触れますが、論文の中心の考え方にはしません。
- 結論と意義:
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論文は、『白痴』は「顔は読める」という観相学的な見通しが崩れていく時代の変わり目に書かれた小説だ、と結論づけます。ムイシュキンが最初は顔を自信をもって読み取っていたのに、最後は沈黙や恐怖に近づいていく流れは、顔が「意味を伝える確かな手がかり」としての力を失っていく大きな変化を、小説の中に記録しているものだとされます。
さらに、顔の意味づけが壊れていくとき、言葉で説明する「指示」ではなく、より原始的な行動である「指差し」が前に出てくる点が重要だと述べます。これは「意味がうまく成り立たない危機」だけでなく、人と人が顔を通してやりとりする仕方そのものが揺らぐ危機でもあります。
また論文は、ムイシュキンにとってナスターシャの顔が、最初に見た衝撃のまま何度も頭に戻ってくる点にも注目します。顔の意味はその場で整理できず、過去の言葉や出来事を参照してようやく近づけるようになります。ここから論文は、『白痴』が観相学の時代の終わりに立つだけでなく、のちの精神分析が重視する「トラウマ」の考え方も先取りしている、と述べます。
- 今後の展望:
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論文ははっきりした研究計画を並べてはいませんが、今後考えられる方向をいくつか示しています。
第一に、ドストエフスキーのノートにある顔のスケッチなどを手がかりに、作品作りと「顔を読む発想」の関係をもっと体系的に調べる余地があります。ただし、ラヴァーターの直接的な影響を強く言い切るのは証拠が少ないので注意が必要です。
第二に、ツルゲーネフの「肖像ゲーム」との比較を深めれば、19世紀の人々が顔や肖像をどう解釈し、それが小説の人物像づくりや読者の推測とどう関係するかを広く探れる可能性があります。
第三に、「顔を解釈して語る」から「顔を指差す」への移動に注目することで、顔が安定した手がかりにならなくなったとき、『白痴』が対面の場面での倫理や会話の成り立ちをどう組み替えるかを追えるとされます。
最後に、顔が引き起こす衝撃の時間的な特徴と、精神分析でいうトラウマ概念を結びつける議論は、観相学的な「顔は読める」というモデルから、時間差で意味ができていく後のモデルへの移行として、今後さらに検証できると示唆されます。
- 何のために?:
-
この文は、『
』という白痴 ( ロシアの作家ドストエフスキーが書いた小説 の題名です。この文はその物語を使って人の顔や性格 の見方を考えています) 小説 の話です。
『白痴 』は、人の顔の意味を考える本です。
小説 では、顔をよく見る場面が多いです。
顔つきで、大事なことを決める場面もあります。
主人公は、 です。ムイシュキン公爵 ( 小説 白痴 に出てくる主人公の名前です。話の中心になる人物で顔を見て相手の気持ちや性格 を考えます)
公爵 は、 の写真を見ます。ナスターシャ ( 小説 白痴 に出てくる女性 の名前です。公爵 が写真を見てその顔から気持ちを考える相手として大事です)
そして、顔から気持ちを考えます。
つらさや、ほこりも感じたと思います。
でも、それは少しふしぎな場面です。
どこを見たのか、はっきりしません。
会ったことがない人を、すぐ決めます。
この文のねらいがあります。
「顔で性格 がわかる」という考えを調べます。
昔のヨーロッパで流行った考え方です。
それが小説 で、どう変 わるかを見ます。
- 何が分かったの?:
-
この文の大事な言いたいことがあります。
小説 は「顔は読める」と見せていきます。
でも最後 は、それがむずかしくなります。
前のほうで、公爵 は自信 があります。
顔は、たしかな手がかりだと思います。
顔で、やさしさや悪さもわかると言います。
こういう考えは、昔は広くありました。
その例 に、「 」が出ます。肖像 ゲーム( 想像 した顔や絵を見てその人の性格 を当てる遊びです。顔で性格 がわかるという考えが当時どれくらい信 じられていたかを示 す例 になります)
想像 の顔を見て、性格 を当てる遊びです。
「本当っぽいか」で、よしあしが決まります。
でも後のほうで、公爵 の自信 はこわれます。
顔を見ても、言葉にできなくなります。
最後 は、こわい声のようになります。
この文は、変化 にも注目します。
「顔を説明 する」より、「指さす」が増 えます。
それは、顔を信 じにくくなるしるしです。
- どうやったの?:
-
この文は、
小説 の場面をよく読みます。
とくに、顔の話が強い場面を見ます。
中心は、写真を見て話すところです。
そして、話せなくなる流れも追います。
また、当時の考え方とも比 べます。
「顔で性格 がわかる学問」が流行りました。
これは「 」とよばれました。観相学 ( 顔つきからその人の性格 や心の中がわかると考える学問です。この文のテーマである顔で性格 がわかるという考え方そのものです)
が広めた時期も大事です。ラヴァーター ( 観相学 を広めたとされる人物の名前です。当時の流行がいつどんなふうに広がったかを考える手がかりになります)
でも、作家が読んだ証拠 は少ないです。
だから、言い切らずに考えます。
さらに「 」も肖像 ゲーム( 想像 した顔や絵を見てその人の性格 を当てる遊びです。顔で性格 がわかるという考えが当時どれくらい信 じられていたかを示 す例 になります) 比 べて考えます。
顔を作り、読み、くらべる文化の例 です。
ほかの研究にも少しふれます。
でも、この文の中心にはしません。
- 研究のまとめ:
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この文は、こうまとめます。
『 』は、時代の白痴 ( ロシアの作家ドストエフスキーが書いた小説 の題名です。この文はその物語を使って人の顔や性格 の見方を考えています) 変 わり目の小説 です。
「顔は読める」という考えが弱くなる時代です。
公爵 は、最初 は顔を読めると思います。
でも最後 は、だまってしまうようになります。
こわさにも近づいていきます。
それは、顔の力が下がることを表します。
顔は、意味を伝 える手がかりでした。
でも、それがうまくいかなくなります。
そのとき、「指さす」が目立ちます。
言葉で説明 するより、行動が出ます。
それは、意味がこわれるきけんです。
人どうしのやりとりも、ゆれます。
また、公爵 は顔の衝撃 を何度も思い出します。
その場で、うまく整理できません。
あとで昔の出来事を思い出して近づきます。
この文は、ここにも注目します。
心のきずの考え方に、にていると言います。
あとから意味がわかる、という話です。
- これからどうする?:
-
この文は、これからの考え方も出します。
一つ目は、作家のメモや絵を調べることです。
顔のスケッチが手がかりになります。
作品作りと、顔を読む考えを調べられます。
でも、だれの影響 かは言い切れません。
証拠 が少ないからです。
二つ目は、「 」ともっと肖像 ゲーム( 想像 した顔や絵を見てその人の性格 を当てる遊びです。顔で性格 がわかるという考えが当時どれくらい信 じられていたかを示 す例 になります) 比 べることです。
昔の人が顔をどう見たかがわかります。
それが小説 作りや、読者の考えにもつながります。
三つ目は、「説明 」から「指さし」への変化 です。
顔が手がかりにならない時を見ます。
そのとき会話や、正しさがどう変 わるかです。
最後 は、顔の衝撃 と時間の話です。
あとから意味ができる、という考えです。
これをもっと確 かめられる、と言います。
- 著者名:
- 番場 俊
- 掲載誌名:
- 新潟大学言語文化研究
- 巻:
- 24
- ページ:
- 1 - 5
- 発行日:
- 2022-01
- 新潟大学学術リポジトリリンク:
- http://hdl.handle.net/10191/0002000248
