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#紀要論文
17-19世紀、日本における博物学とアマチュア学者について
- AI解説:
- 本論文は、17〜19世紀の日本の博物学を、18世紀半ば以降にヨーロッパとアジアで見られた、自然を収集し分類することへの関心の高まりという、より広域で地域横断的な潮流の中に位置づける。日本の歩みがヨーロッパの博物学と構造的に異なっていたのは、徳川幕府が海外渡航を禁じ、外国との接触を厳しく統制したためであり、その結果、日本の学者や愛好家は標本入手を外国遠征に頼ることができなかったと論じる。こうした制約がある一方で、江戸時代(1603–1868)には、博物学はエリートの学問の枠を超えて都市文化へと広がり、園芸、動物の飼育、公開展示、競争的な陳列といった形で表現された。以上を踏まえ、本論文は(1)日本の博物学が中国の本草学からいかに発展したかを、特に李時珍の『本草綱目(*Bencao gangmu*)』(1596年;1604年までに輸入)の導入・解釈・増補を通じて描写し、(2)多くが富裕商人であったアマチュアの学者が、収集、貸し出し、展示、知識交換の促進を通じて、物質面および社会面でどのように貢献したかを説明することを目的とする。議論は、代表的な「商人学者」である木村蒹葭堂(Kimura Kenkadō, 1736–1802)の事例研究へと収斂し、彼の私的コレクションが学術的交流の重要な場として機能したことを示す。
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その他
コアステーション
#紀要論文
17-19世紀、日本における博物学とアマチュア学者について
AI解説
- 背景と目的:
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本論文は、17〜19世紀の日本の博物学を、18世紀半ば以降にヨーロッパとアジアで見られた、自然を収集し分類することへの関心の高まりという、より広域で地域横断的な潮流の中に位置づける。日本の歩みがヨーロッパの博物学と構造的に異なっていたのは、徳川幕府が海外渡航を禁じ、外国との接触を厳しく統制したためであり、その結果、日本の学者や愛好家は標本入手を外国遠征に頼ることができなかったと論じる。こうした制約がある一方で、江戸時代(1603–1868)には、博物学はエリートの学問の枠を超えて都市文化へと広がり、園芸、動物の飼育、公開展示、競争的な陳列といった形で表現された。以上を踏まえ、本論文は(1)日本の博物学が中国の本草学からいかに発展したかを、特に李時珍の『本草綱目(*Bencao gangmu*)』(1596年;1604年までに輸入)の導入・解釈・増補を通じて描写し、(2)多くが富裕商人であったアマチュアの学者が、収集、貸し出し、展示、知識交換の促進を通じて、物質面および社会面でどのように貢献したかを説明することを目的とする。議論は、代表的な「商人学者」である木村蒹葭堂(Kimura Kenkadō, 1736–1802)の事例研究へと収斂し、彼の私的コレクションが学術的交流の重要な場として機能したことを示す。
- 主要な発見:
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中心的な発見は、江戸期の博物学が、文献中心の学びから、モノ(標本)を基盤とする経験的志向の実践へと移行することで発展したという点である。中国の本草学は基盤であり続け、特に52巻からなる『本草綱目(*Bencao gangmu*)』は17分類で1,892種を扱うが、日本の学者はこれを能動的に適応させ、日本固有の種を追加し注釈を施した。その例として貝原益軒の『大和本草(*Yamato Homo*)』が挙げられる。さらに本論文は、国家政策が博物学的探究を直接的に促しうることも見いだす。徳川吉宗の享保の改革(Kyōhō Reforms)は、高価な薬用原料の輸入を減らすために国内の薬物集(domestic pharmacopeia)を推進し、その結果、代替として利用可能な新しい種や亜種を求める全国規模の探索が進み、小石川の幕府薬園の拡充、佐渡・駿府・日光での新たな区画の設置へとつながった。これらの取り組みは、「資料」(標本)を単なる文献の図示ではなく、研究対象として正当化する助けとなった。もう一つの主要な発見は、交換のためのインフラに関するものである。学者や実務者は、同定、分類(taxonomy)、命名(nomenclature)をめぐって議論するために、結社、勉強会、定期的な展示会を形成し、それらはしばしば無料で一般公開された。例として、平賀源内が1757年に江戸で始め(最大規模は1762年)、年次で開催した「薬品会(pharmacopoeia assemblies)」、1792〜1867年に毎年行われた幕府医学館(Shogunate Medical School)の展示会、ならびに「舎辨会(Shabenkai)」の月例会が挙げられる。最後に本論文は、アマチュアが収集者・主催者として果たした実質的な役割を強調する。木内石亭(Sekitei Kinouchi)の石のコレクション(2,000点超)と、彼の「弄石社(Rousekisha)」という結社(300人超の会員)は、非エリートの担い手が研究課題を形成し、さらには考古学的解釈に関与しうることを示す証拠として提示される。木村蒹葭堂の事例は、私的な家庭がサロンのような博物館・図書館として機能し、身分を越えた知的協働を支え得たことを示すために用いられ、晩年に39,000人の来訪者があったことが記録から確認できると述べる。
- 方法論:
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本論文は、記録に残る文献、制度的実践、伝記資料の記述的統合にもとづく歴史叙述のアプローチを用いる。日本の博物学の展開は、(a)正典的著作とその受容—とりわけ李時珍の『本草綱目(*Bencao gangmu*)』および貝原益軒の『大和本草(*Yamato Homo*)』のような日本での翻案—を、(b)政策イニシアティブと組織的プログラム、特に徳川吉宗が1721年と1734年に薬用材料やその他の自然産物を調査するよう委嘱したことに結びつけることで再構成される。次いで分析では、複数都市(江戸、大阪、京都、ならびに福井、和歌山、熊本など)における展示会や学術結社の事例を、創設年と継続期間(例:幕府医学館の展示会は1792–1867)を含めて集成することで、知識共有メカニズムの成長を跡づける。アマチュアの役割については、例示的なケーススタディを用い、木内石亭は収集実践、著作、結社参加の詳細によって提示される。木村蒹葭堂は、限られた伝記情報、自伝、日記によって検討され、日記は来訪者数と来客の社会的範囲の根拠として引用される。追加の証拠として、1798年5月20日付の現存する訪問記録(訪問時に示された物品を記述)が用いられるほか、死後の行政的措置も扱われる。すなわち、1791年の火災と蒹葭堂の死後、幕府は甥に残存品の目録作成を依頼し、現存資料(特に稀覯書と地図)は官の管理下へ移管されたという。総じて本方法論は、制度の年代記、文献の伝播、物質文化(コレクションと展示会)を重視し、知識がいかに生産され流通したかを論じる。
- 結論と意義:
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本論文は、江戸時代の日本の博物学が幕府の対外政策によって決定的に形づくられたと結論づける。すなわち、ヨーロッパの博物学者がしばしば海外遠征によって「珍奇な物品(rare objects)」を入手したのに対し、日本の学者や愛好家は希少性を主として日本国内で追求し、医薬や自然産物に関わる国内の亜種や新種の同定と命名に注力した。重要な解釈上の主張として、展示会・収集・学術集会の文化が拡大したことにより、標本に対する経験的な関与へと移行する道が開かれ、中国本草学から受け継いだ従来の文献中心の学びを補完し、次第に作り替えていったと述べる。さらに本論文は、知識形成が正規の専門家に限定されなかった点を強調する。無料の公開展示や定期的な結社の会合を描写することで、博物学を、専門職、官人、広範な一般層を結びつける、社会的に分散した営みとして提示する。本論文の最も重要な貢献は、アマチュアの学者—とりわけ富裕な商人収集家—が周縁的な趣味人ではなく、研究を実務面で可能にする担い手であり、物品、稀覯書、器具、議論の場へのアクセスを提供したと論じる点にある。木村蒹葭堂はその最も顕著な例として示され、彼の家は身分を越えた討論の場として機能し、収集と貸し出しは、議論を促し、整理と分類によって知識を体系化するという研究支援の目的に明確に向けられていたとされる。この枠組みにおいて、蒹葭堂の活動は、のちに近代日本の科学へとつながる博物学の基盤強化に寄与したと位置づけられる。
- 今後の展望:
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本論文は、今後の研究に向けた明確な課題設定を提示しておらず、結論部で強調する、身分を越えた協働とアマチュアの貢献の歴史的重要性を超えて、将来の展望を明示的に述べてはいない。
- 背景と目的:
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この論文は、17〜19世紀の日本で発展した
を、18世紀半ば以降にヨーロッパやアジアで広がった「自然のものを集めて分けて考える」ブームの中に位置づけて説明します。日本では博物学 ( 動物や植物、鉱物など自然のものを集めて観察し、特徴ごとに分けて理解しようとする学問や活動です。江戸時代には学者だけでなく一般の人にも広がり、展示会や収集文化と結びついて発展した点が重要です。) の政策で海外渡航が禁止され、外国との交流も厳しく制限されていたため、ヨーロッパのように海外遠征で徳川幕府 ( 江戸時代の日本を治めた政治の中心で、将軍を頂点とする政権です。海外渡航の禁止などの政策が、日本の博物学の進み方をヨーロッパと違うものにしました。) を集める方法がとれませんでした。標本 ( 研究や記録のために集めて保存した動植物・鉱物などの実物です。本を読むだけでなく実物を見て確かめる学びが広がったことを示す重要な存在です。)
その一方で江戸時代には、博物学は一部のエリートだけの学問にとどまらず、都市の文化として広がりました。たとえば、園芸、動物の飼育、一般向けの展示、見せ方を競う展示会などが流行しました。
この論文の目的は、主に次の2点です。1つ目は、日本の博物学が中国の をもとに、李時珍の『本草学 ( 薬に使う植物や動物、鉱物を中心に、その効き目や使い方、種類をまとめて学ぶ伝統的な学問です。日本の博物学はこの学びを土台にしながら、実物観察を重ねて広がっていきました。) 』を取り入れて読み直し、日本に合うように内容を足したり説明を書き加えたりしながら発展した過程を示すことです。2つ目は、裕福な商人などの本草綱目 ( 中国の李時珍がまとめた薬物の大百科で、多くの種を分類して説明した本です。日本では早くから輸入され、学者が注釈を加えたり日本の生き物を追加したりして、研究の基準となりました。) 研究者が、収集や貸し出し、展示、情報交換の場づくりを通して、博物学にどのように貢献したかを明らかにすることです。最後に、アマチュア ( 職業の専門家ではないが、強い関心と行動力で研究や収集に関わった人です。江戸時代の博物学では、アマチュアが物や本や場を提供して研究を支える存在でした。) の代表例である商人学者 ( 商人として働きながら学問にも深く関わった人です。資金力や人脈を生かして収集や交流の場を支え、博物学の広がりに大きく貢献しました。) の事例を中心に、彼の私的コレクションが学びと交流の重要な場所になっていたことを示します。木村蒹葭堂 ( 大阪の商人であり、博物学の収集家としても有名な人物です。多くの人が訪れる私的コレクションを持ち、貸し出しや議論の場づくりを通じて学びを支えました。)
- 主要な発見:
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この論文の重要な発見は、江戸時代の
が「本を読む学び」中心から、「実物の博物学 ( 動物や植物、鉱物など自然のものを集めて観察し、特徴ごとに分けて理解しようとする学問や活動です。江戸時代には学者だけでなく一般の人にも広がり、展示会や収集文化と結びついて発展した点が重要です。) を集めて確かめる学び」へと変化することで発展した点です。中国の標本 ( 研究や記録のために集めて保存した動植物・鉱物などの実物です。本を読むだけでなく実物を見て確かめる学びが広がったことを示す重要な存在です。) は基本として残り続けましたが、日本の学者は『本草学 ( 薬に使う植物や動物、鉱物を中心に、その効き目や使い方、種類をまとめて学ぶ伝統的な学問です。日本の博物学はこの学びを土台にしながら、実物観察を重ねて広がっていきました。) 』をそのまま受け取ったのではなく、日本にいる動植物や鉱物を追加し、注釈を加えました。代表例として、貝原益軒の『本草綱目 ( 中国の李時珍がまとめた薬物の大百科で、多くの種を分類して説明した本です。日本では早くから輸入され、学者が注釈を加えたり日本の生き物を追加したりして、研究の基準となりました。) 』が挙げられます。大和本草 ( 貝原益軒が『本草綱目』などをもとに、日本の動植物や鉱物を多く取り入れてまとめた本です。外国の知識を日本の自然に合わせて作り直した例として重要です。)
また、幕府の政策が博物学を後押しした点も示されます。徳川吉宗の では、外国から高価な薬の材料を買う量を減らすため、国内で使える薬の材料を整えることが進められました。その結果、全国で新しい種類や似た種類を探す動きが強まり、小石川の享保の改革 ( 8代将軍徳川吉宗が進めた政治改革で、財政の立て直しや産業の強化をねらいました。薬の材料を国産化する動きが、全国的な調査や標本収集を促した点で博物学とも関係します。) が大きく拡充され、佐渡・駿府・日光などにも新しい区画がつくられました。こうした動きは、標本を「本の図の補助」ではなく、研究対象そのものとして扱う考え方を広げました。幕府薬園 ( 幕府が管理した薬草などを育てるための園地です。小石川の薬園の拡充などは、薬の研究だけでなく、標本を集め調べる活動の拠点にもなりました。)
さらに、知識を交換するための仕組みが発達したことも重要です。学者や実務家たちは、標本が何であるかを確かめたり、 や名前の付け方を議論したりするために、分類 ( 生き物や鉱物などを、共通点や違いにもとづいてグループに分けることです。分類が進むと、知識が整理され、他の人とも同じ基準で議論しやすくなります。) や勉強会、定期的な展示会をつくりました。展示会の多くは無料で一般公開され、人々を集めました。例として、平賀源内が江戸で始めた結社 ( 同じ関心をもつ人が集まり、情報交換や研究、展示などを行うグループです。江戸時代の博物学では、身分をこえて人が集まり、知識が広がる大きな力になりました。) 、薬品会 ( 薬の材料や自然産物などを持ち寄って見せ合い、情報交換する展示会のような集まりです。平賀源内が主催した例が有名で、標本にもとづく議論を広げました。) で毎年行われた展示会、幕府医学館 ( 幕府が関わった医学教育や研究の拠点です。定期的な展示会を行い、標本を使った学びや情報共有を支えました。) の月例会などが挙げられます。舎辨会 ( 幕府医学館と関係の深い博物学の集まりで、標本の同定や分類、展示などを定期的に行いました。専門家だけでなく交流の場としても重要でした。)
最後に、 の役割の大きさが強調されます。たとえば木内石亭は2,000点を超える石のコレクションをつくり、300人以上が参加した弄石社という結社を組織しました。アマチュア ( 職業の専門家ではないが、強い関心と行動力で研究や収集に関わった人です。江戸時代の博物学では、アマチュアが物や本や場を提供して研究を支える存在でした。) の例では、個人の家が木村蒹葭堂 ( 大阪の商人であり、博物学の収集家としても有名な人物です。多くの人が訪れる私的コレクションを持ち、貸し出しや議論の場づくりを通じて学びを支えました。) のように開かれ、博物館や図書館のような役割を果たし、身分をこえた協力が生まれていたことが示されます。記録から、晩年に合計39,000人もの来訪者があったことも確認できると述べています。サロン ( 人が集まって会話や議論をする社交的な場です。蒹葭堂の家のように、身分をこえて集まり、標本や本を見ながら議論できる場所が知識の発展を支えました。)
- 方法論:
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この論文は、当時の文献記録、制度として行われた活動、人物の伝記資料などをまとめて読み解き、歴史を描く方法をとります。具体的には、李時珍の『
』や、それを日本で読み替えて発展させた貝原益軒の『本草綱目 ( 中国の李時珍がまとめた薬物の大百科で、多くの種を分類して説明した本です。日本では早くから輸入され、学者が注釈を加えたり日本の生き物を追加したりして、研究の基準となりました。) 』などの重要な書物が、どう受け入れられ広まったかを整理します。大和本草 ( 貝原益軒が『本草綱目』などをもとに、日本の動植物や鉱物を多く取り入れてまとめた本です。外国の知識を日本の自然に合わせて作り直した例として重要です。)
同時に、徳川吉宗が1721年や1734年に命じた調査など、政策による取り組みと結びつけて、 がどう変化したかを説明します。さらに、江戸・大阪・京都だけでなく、福井、和歌山、熊本など各地の展示会や博物学 ( 動物や植物、鉱物など自然のものを集めて観察し、特徴ごとに分けて理解しようとする学問や活動です。江戸時代には学者だけでなく一般の人にも広がり、展示会や収集文化と結びついて発展した点が重要です。) について、いつ始まりどれくらい続いたかも集めて、知識共有の仕組みが成長した様子を追います。結社 ( 同じ関心をもつ人が集まり、情報交換や研究、展示などを行うグループです。江戸時代の博物学では、身分をこえて人が集まり、知識が広がる大きな力になりました。)
の貢献については、木内石亭やアマチュア ( 職業の専門家ではないが、強い関心と行動力で研究や収集に関わった人です。江戸時代の博物学では、アマチュアが物や本や場を提供して研究を支える存在でした。) といった具体例を使って詳しく検討します。蒹葭堂については、自伝や日記、訪問記録などから、来訪者の多さや交流の広さを確かめます。また、1791年の火災や蒹葭堂の死後に、幕府が残った品の目録作成を依頼し、木村蒹葭堂 ( 大阪の商人であり、博物学の収集家としても有名な人物です。多くの人が訪れる私的コレクションを持ち、貸し出しや議論の場づくりを通じて学びを支えました。) や地図などが公的に管理されたことも扱います。稀覯書 ( 数が少なく、手に入りにくい貴重な本です。研究の材料として価値が高く、収集家が持つことで学びの環境が整い、多くの人の研究を助けました。)
- 結論と意義:
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この論文は、江戸時代の日本の
が、幕府の対外政策によって大きく形づくられたと結論づけます。ヨーロッパでは海外遠征で珍しいものを集めることが多かったのに対し、日本では海外に行けないため、国内で珍しい自然物を探し、薬や自然産物に関わる国内の博物学 ( 動物や植物、鉱物など自然のものを集めて観察し、特徴ごとに分けて理解しようとする学問や活動です。江戸時代には学者だけでなく一般の人にも広がり、展示会や収集文化と結びついて発展した点が重要です。) や新種 ( それまで知られていなかった、新しい種類の生き物として認められるものです。国内で新種を見つけて名付けることが、日本の博物学の特徴の一つでした。) を見つけて名前をつけることに力が注がれました。亜種 ( 同じ種の中でも、地域などによって少し特徴が違うグループです。輸入品の代わりになる薬材料を探す中で、亜種の発見や区別が重要になりました。)
また、展示会・収集・学術集会の文化が広がったことで、人々が に実際に触れて確かめる学びが進み、中国由来の文献中心の学びを補いながら、少しずつ学びの形を変えていったと述べます。さらに、知識づくりは専門家だけのものではなく、無料公開の展示や標本 ( 研究や記録のために集めて保存した動植物・鉱物などの実物です。本を読むだけでなく実物を見て確かめる学びが広がったことを示す重要な存在です。) の活動によって、専門職の人、役人、一般の人々がつながる「社会に広がった活動」だったと示します。結社 ( 同じ関心をもつ人が集まり、情報交換や研究、展示などを行うグループです。江戸時代の博物学では、身分をこえて人が集まり、知識が広がる大きな力になりました。)
特に重要な点として、裕福な商人などの 研究者は、周辺的な趣味人ではなく、研究を現実に動かす支え手だったと論じます。彼らは物品やアマチュア ( 職業の専門家ではないが、強い関心と行動力で研究や収集に関わった人です。江戸時代の博物学では、アマチュアが物や本や場を提供して研究を支える存在でした。) 、道具、議論の場へのアクセスを用意し、学びを前に進めました。稀覯書 ( 数が少なく、手に入りにくい貴重な本です。研究の材料として価値が高く、収集家が持つことで学びの環境が整い、多くの人の研究を助けました。) はその代表であり、彼の家は身分をこえた議論の場となり、収集と貸し出しは研究を助け、整理と木村蒹葭堂 ( 大阪の商人であり、博物学の収集家としても有名な人物です。多くの人が訪れる私的コレクションを持ち、貸し出しや議論の場づくりを通じて学びを支えました。) によって知識をまとめることにつながったと位置づけられます。こうした活動は、のちの近代日本の科学につながる土台を強くしたものだと評価されます。分類 ( 生き物や鉱物などを、共通点や違いにもとづいてグループに分けることです。分類が進むと、知識が整理され、他の人とも同じ基準で議論しやすくなります。)
- 今後の展望:
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この論文は、今後の研究課題を具体的に示す形ではまとめていません。結論では、身分をこえた協力や
の貢献の重要性を強調していますが、それ以上の明確な将来の展望は述べていません。アマチュア ( 職業の専門家ではないが、強い関心と行動力で研究や収集に関わった人です。江戸時代の博物学では、アマチュアが物や本や場を提供して研究を支える存在でした。)
- 何のために?:
-
この文は、江戸時代の学びを話します。
その学びは、自然 のものを調べます。
たとえば、草や石や貝などです。
ヨーロッパでは、海外に行けました。
そして、めずらしい物を集めました。
でも日本は、海外に行けませんでした。
そのため、日本の中で集めました。
江戸時代には、その学びが広がりました。
えらい人だけの学びではありません。
町の人も、楽しみながら学びました。
花を育てることも、人気でした。
動物を飼 うことも、流行しました。
見せる会や、くらべる会もありました。
この文のねらいは、2つあります。
1つ目は、学びの育ち方を調べます。
中国の本を、日本で読み直しました。
日本に合うように、足したりしました。
2つ目は、町の金もちの力を調べます。
集める、貸 す、見せることをしました。
人が話し合う場所も作りました。
という人も取り上げます。木村蒹葭堂 ( 江戸時代の人物の名前です 物や本を集め人が集まって話し合う場を作った人として出てきます 学びが町の人にも広がったことを示 す中心人物です)
その人の集め物が、大事な場でした。
- 何が分かったの?:
-
江戸の学びは、だんだん
変 わりました。
本を読むだけの学びではありません。
本物を集めて、たしかめる学びです。
中国の本は、 として土台 ( 物事を支 えるもとになる部分のことです 中国の本が土台になったとあるので何をもとに学びが発展 したかを理解 するために大事です) 残 りました。
でも、そのまま信 じたわけではありません。
日本の生き物や石を、書き足しました。
説明 も書き足して、使いやすくしました。
たとえば『 』があります。大和本草 ( 江戸時代に作られた本草の本の名前です 日本の植物や動物などについて書き足してあり中国の本を日本に合うようにした例 として重要 です)
お上のきまりも、学びを助けました。
外国の薬を、あまり買わないためです。
日本で使える を、そろえました。薬草 ( 薬として使うことができる草や植物のことです 病気をよくするために使われ江戸時代に日本で薬をそろえる動きと関係 する大事な言葉です)
そのため、全国で探 す動きが強まりました。
の薬草を育てる場所も広がりました。小石川 ( 江戸にあった地名で薬草を育てる場所があったことで知られます 薬草を集めて育てる取り組みがどこで行われたかを知るのに必要 です)
ほかの場所にも、新しい ができました。区画 ( 土地をいくつかに分けた一つ一つの場所のことです 薬草を育てる場所を広げるときに土地を分けて使いやすくします 取り組みの広がり方を理解 するために大事です)
本物は、本の絵の助けではなくなります。
本物そのものが、学ぶ相手になりました。
知りたいことを、やりとりする仕組みもできました。
集めた物の名前を、話し合いました。
分け方も、みんなで考えました。
勉強会や、仲間 の会ができました。
定期的 な見せる会も、開かれました。
多くは無料 で、だれでも見られました。
しろうとの人の力も、大きかったです。
石を2000こ以上 集めた人もいます。
300人以上 の仲間 の会も作りました。
の家は、みんなに開かれました。木村蒹葭堂 ( 江戸時代の人物の名前です 物や本を集め人が集まって話し合う場を作った人として出てきます 学びが町の人にも広がったことを示 す中心人物です)
や博物館 ( 自然 の物や昔の物などを集めて見せる施設 のことです 文では木村蒹葭堂の家がそのような役目をしたと言っていて集めた物を見て学ぶ文化を理解 するのに重要 です) みたいな役目もしました。図書館 ( 本を集めてみんなが読めるようにする場所のことです 木村蒹葭堂の家が本でも学べる場所だったことを表し学びが広がった理由につながります)
身分をこえて、助け合いが生まれました。
には、たくさんの人が来ました。晩年 ( 人生の終わりに近いころのことです そのころに多くの人が来たと書かれていて活動が広がった時期を知るために必要 です)
合計で39000人だと、書いてあります。
- どうやったの?:
-
この文は、昔の
記録 を集めて読みます。
本や、決まりごと、 も使います。伝記 ( ある人の生き方やしたことをまとめた本や記録 のことです 昔の人を調べる方法 として使われどんな活動があったかを確 かめるのに大事です)
中国の本が、どう広まったか見ます。
日本で読み直した本も、調べます。
お上が命じた調べ物も、たどります。
それと学びの変化 を、つなげて考えます。
江戸だけでなく、ほかの町も見ます。
見せる会や仲間 の会を、集めて比 べます。
いつ始まり、どれくらい続 いたか見ます。
しろうとの人の例 も、くわしく見ます。
や、木内石亭 ( 江戸時代の人物の名前です 石をたくさん集めた例 として出てきます しろうとの人でも学びに参加 できたことを説明 するのに大事です) を調べます。木村蒹葭堂 ( 江戸時代の人物の名前です 物や本を集め人が集まって話し合う場を作った人として出てきます 学びが町の人にも広がったことを示 す中心人物です)
日記や来た人の記録 も、使います。
火事のことや、 の整理も死後 ( 人が死んだあとという意味です 死後の整理や品の管理 が書かれていて集めた物がどのように残 されたかを理解 するのに大事です) 扱 います。
残 った品は、 にして目録 ( 集めた品や本の名前を一覧 にしてまとめた表のことです残 った品を管理 するために作り何があったかを後から調べる手がかりになるので重要 です) 管理 されました。
- 研究のまとめ:
-
江戸の学びは、きまりの
影響 が大きいです。
日本は海外に行けない決まりがありました。
だから日本の中で、めずらしい物を探 しました。
新しい種類 を見つけ、名をつけました。
見せる会や集める文化が、広がりました。
人びとは本物にさわり、たしかめました。
本の学びを助けながら、形が変 わりました。
学びは、先生だけのものではありません。
役人や町の人も、つながって学びました。
金もちの商人たちは、支 える人でした。
物や本や道具を、用意しました。
話し合う場も作り、学びを進めました。
の家は、木村蒹葭堂 ( 江戸時代の人物の名前です 物や本を集め人が集まって話し合う場を作った人として出てきます 学びが町の人にも広がったことを示 す中心人物です) 議論 の場所でした。
集めたり貸 したりして、研究を助けました。
分けて整理して、知りたいことがまとまりました。
それが、 の科学ののち ( 時間がたってからという意味です 江戸の学びが後の科学につながったという流れを読むために必要 です) になりました。土台 ( 物事を支 えるもとになる部分のことです 中国の本が土台になったとあるので何をもとに学びが発展 したかを理解 するために大事です)
- これからどうする?:
-
この文は、はっきりした次の
課題 は書いていません。
でも、身分をこえた協力 は大事だと言います。
しろうとの人の力も、大事だと言います。
- 著者名:
- Ito Mamiko
- 掲載誌名:
- 19世紀学研究
- 号:
- 11
- ページ:
- 17 - 24
- 発行日:
- 2017-03
- 新潟大学学術リポジトリリンク:
- http://hdl.handle.net/10191/00051658
